誰かの客であろうとする私たち 2015.10.18

先日、埼玉県の職員が勤務中にネットゲームをした科で懲戒処分を受けたが、勤務中にネットゲームをすることはたしかに良くは無いのだが、これについて鬼の首を取ったような態度で職員の非を責め立てる世論に疑問がある。
私たちは半世紀ほど”お客様は神様である”というイデオロギーを刷り込まれ、ずっとそれを信じてきた。
だからお客様の言うことは絶対的な正しさ持ち異論を挟むことは許されない。
そう信じてきた。このような価値観で生きているとこの職員のような就業態度は絶対に許せないのである。だが、こうやって他者の落ち度を徹底的に断罪する事はそれはいずれ自分にも降りかかってくる。顧客の立場としてサービス提供者を査定することは、自分自身もまた他者から査定されるという事である。怠け者への容赦の無い批判は巡り巡って自分への批判にもなる。溺れた犬を棒で叩くのを戒めなければならないのは、人生の中でこの主従逆転が容易に起こりうるからである。つまりは自分のために他者への攻撃は慎重になるべきなのだ。
他者を批判する時つねに自分の発言責任については免責されている。
ネットにおいてはとくにだが。
だが、このようなことを続けていると誰もが、サービス従事者を辛辣な態度であしらってしまう。
そして、そういう処遇を受けた人はその経験を元に今度はまた別の場所でそういうあしらいをするようになる。
こうなれば、日本社会はどんどん萎縮して行ってしまう。
つまり他者への寛容が無ければ、いずれ自分の立場も同様になっていく可能性が高いのだ。だから自分の生存戦略上弱者を優遇しなければならないのだ。
よりよき職場環境が欲しいのであれば、多少の怠惰・不作為について大目に見なければならない。それはひいては自分の立場を救うことになるからだ。

多くの人は他者を批判する時に自分はその対象から除外されていると思っている。
とくにネットは匿名性の高い媒体なので、批判の反動が自分に返ってくるケースは少ない。
だから、発言者は本音という身体を切り離した空疎な言論だけが一人歩きする。
アレントは発言のみを検討の俎上にあげるよう主張していたが、やはり身体が担保されない発言は検討するべきではないように思う。
発言は両刃の剣であること。批判すればつねに自分にも返ってくるという緊張感が無ければ有意な言論が生まれる可能性は低い。

結論;身体が担保されない発言は考慮するべきではない。

 

リーダ一ップと国際競争力 2015.8.9

投票率の低さ、政治的無関心(Political Apathy)の原因は根が深いように思う。それは天皇制があることで、日本国という制度にアンタッチャブルな領域があることを意識・無意識に日本人は刷り込まれているからのように思う。日本を洗濯しようとした坂本竜馬ですら、天皇制のフレームワークからは逸脱することはなかった。日本はどう変わっても天皇制から脱却したビジョンはタブー視されている。これが日本人の思考のボトルネックになっている。政治的無関心というのもある種の諦念のような気配すら感じられる。
国民主権とどう謳っていようと、為政者のコントロールから逃れることは最終的に不可能という結論を日本人はDNAレベルで刷り込まれてしまっている。現代になっても国民の政治意識は江戸時代のそれと変わっていないのである。
悪いのはそれだけではない。中途半端な国民主権を教え込まれて政治に参加する泥臭さを嫌い、為政者は自分の都合の良い政治をしていれば良いという政治の市民参加を忌避し、利益の享受だけに汲々する国民性になってしまっている。投票率の低さはそういう人生観といっても差し支えないくらい深い虚無観が横たわっている。この構造は極めて憂慮すべき状態で、この無力感を抱えたままリーダーシップを持った他国の人間と互角に渡り合うのは難しいように思う。
さらにまずいのは世界がグローバリズムに傾いてきて、リーダーシップを持つ人間が台頭する時代になってきているというのに、日本ではその国の構造上、リーダーシップを持つ人間を育てるのに都合の良い風土ではないからだ。もちろん求人欄にはリーダーシップを持つ人間を歓迎するとは謳ってはいるが、それは、革命的な人材を求めながらトップの決定には従順であるべきという日本社会の縮図のような矛盾した人材を求めている。
この先、世界のリーダーシップを持った人間と互角に渡り合うためには日本という社会の思考ではあまりにも弱い。そりゃ、日本人であっても一部の社会のトップランナーであるならば、世界と互角に戦える思考を持つ日本人もいるのだろうけれど、国の総合力で勝負する現代の国際社会では日本人全体の底上げが出来ていないと勝つことは難しい。
鎖を外されても家を出ない犬のようなもので、日本人は外形的に自由になっても真に自由になることは恐れている。それは自由の対価に差し出す痛みに耐えられないからなのかもしれない。

邦画で見る歴史認識の変遷 2015.7.19

戦争を巡る歴史認識でその違いが解るのが日本の戦争映画の変遷である。敗戦の十数年にわたって日本人の戦争認識を支配し続けていたのが、「私は貝になりたい」であった。これはフランキー堺が主演で、上官の命令で捕虜を処刑した兵卒が戦勝国の法廷によって裁かれるというストーリーである。この映画は日本人が戦争にどのように向き合ったのか日本人の心境を代弁する映画であった。戦争には強制力があり、日本人の多くが不本意にも戦争に荷担させられたというのが戦争に関して多くを語らない日本人の心の叫びであった。その後「戦場のメリークリスマス」が公開され、日本人の戦争に対する日本人の複雑な心情が吐露され、海外から高い評価を受けたが、それは戦後レジームに対する従順な日本人の態度を守ったからである。日本人は世界に対して深い反省と悔悟を持ち続けているというアピールが戦勝国の溜飲を下げたのである。だが、時代は変わりその戦後レジームを国際社会の政治カードとして利用する連合国の牽制に苛立ちを隠せなくなったのが今の日本人だ。「70年前の戦争なのだからもう水に流せ」「過ぎたことは忘れろ」というのは日本人の美徳ではあるが、このローカルな美風を諸外国が持っているとは限らない。人によっては子孫末代まで呪われているのかもしれない。国内で日本人である事を宣言するには特に問題は無いのだが、世界の中で日本人を宣言することは重要な意味を持つ。世界からの日本人の賞賛を浴すると同時に日本人の負の遺産も引き継ぐ事になる。世界の中で日本人を名乗るという事はそういう文脈の流れの中にあるといえる。この戦後レジームを覆す事はまず不可能だ。日本はこの戦後レジームの恩恵を受けて発展してきた。いまさらそれを反故にすることは出来ない。それはギリシャの財政破綻と状況が似ている。国内情勢に不安因子があると中国や朝鮮がガス抜きで仮想敵国に日本を仕立て挙げたように、日本では日本史の正当化が始まるのかもしれない。否、もう始まっているのだろう。日本は中国や朝鮮のように、先ずは自分たちの存在の正当性に拘るようになる。日本も例外なくその流れに居る。その変化の一つとして「永遠の0」がある。日本人の気高さを描いた映画だが、あの映画の主人公は日本人の中でも特異な人間であって、分かりやすく言えばあれはアカだ。あの時代に非戦を貫いた日本人は皆共産主義者だった。現代の日本人でも躊躇する思想を持った人間を映画は巧みに日本人全体の本音とすり替えている。共産主義者を嘲笑している人があの映画で共感するというのは、その人自体物事の本質に対して真剣に向き合った事が無いからだろう。「はだしのゲン」を反日漫画と批判している人が「永遠の0」を絶賛するのはその人のアタマが弱いからだと言わざる得ない。サッカーの日本代表を「サムライブルー」と言ってしまって平気な感性に近い。侍は封建時代にはほんの数%しかおらず、当時の日本人の殆どが農民や商人で構成されていたのである。つまり我々の殆どが田吾作の子孫だったのだ。”サムライ”という単語も外国人が「フジヤマ」「ゲイシャ」「サムライ」というジャポニズム的な発想の逆照射であって、外人受けするキャッチーなネーミングありきの日本人のスピリッツというのもなんだか頂けない。閑話休題。
多くのナショナリストはダブルスタンダード的な考え方を平気するので、無駄かも知れないが、「永遠の0」を絶賛するのなら「はだしのゲン」を正しく評価するように。

生きている自体が無駄な事 2015.4.25

そもそも生きている事は無駄な事なのである。
だから無駄を楽しめなければ生きている実感を持てない。

世間では断捨離と言われているが、物欲を捨てるのは生命力の削減を意味する。死への準備のための身辺整理と言ってもいい。
生きる事は欲望を満たす事でもある。美味いものが食べたい、遊びたい、すなわちカネが欲しいなどなど。
だが、社会が合理化をスローガンに無駄なものを否定するようになってから人間はますます生命力を喪っていっているような気がする。合理化は無駄なものを無くしていく活動なので、これを推し進めると社会が萎縮してしまう。あれは無駄だ、これも無駄だ、だから全てが無駄だ。これで行き着く先になにがあるというのだろう。その合理化の矛盾の矢面に立ったのがクルマだ。クルマ?電車、バスがあるじゃないか。自家用車は無駄だ。というような具合に。つきつめて言えば、生きている事自体が無駄そのものなのに合理化という名の無駄の否定は生きる力そのものを殺いでいく。神仏に祈る?意味があるの?無駄だ!というようになってしまう。その人の心を豊かにしてくれるというのなら神仏に祈る事を否定する理由もない。ただ、無駄なものが生きる意味を与えてくれることに気づかないと人生はますます詰まらないものになっていく。その矛盾にいち早く気づいた人の一部がニートになっていく。
合理化はタナトスへの誘惑である。
私たちは無駄なものを価値あるものと置き換えて生きる意味を見つけている。
愛、友情、夢。これからは合理的見地からは無駄なものだ。だが、これこそが人間を生につなぎ止める要素だ。
例を挙げれば、ディズニーは無駄なものを売っている。只ディズニーはそれこそが価値のあるものだと訴えている。一方クルマや他のプロダクトはそれらが合理的な理由でニーズがあると喧伝している。でも一部の人たちにはその物欲自体が無駄である事に気づき避け始めている。クルマはもう合理的な存在理由を担保されない無駄なものであることに自動車会社は早く気づき、クルマに付随する単なる爽快さや楽しみという付加価値的な意味だけを重視していかないと自己矛盾を抱えたまま斜陽を迎えることになるだろう。
繰り返すけれど生きていること自体が無駄なのだ。だから、平素より無駄を愛さないと生きている意味を見いだせない。

封建制度<職業選択の自由<ベーシックインカム 2015.3.24

江戸時代は封建制度で武士の子供は武士になり、農家の長男は農業を引き継いだ。好きな仕事には就けない時代だった。将棋を指すのが好きだから棋士になるのは特例であって大概の人は生まれた時から将来が決まっていた。現在では憲法で職業選択の自由が認められており、誰もが自分の好きな職業に就くことが出来る。だが、それは個人の能力と資質に影響されるので、ほんとうに自由に職業を選べるというのではない。医師試験に合格しない人が医者になれないように、近視の人が旅客機のパイロットになれないように。また、それで食えなければプロとはいえない。現代は職業選択の自由はあるが、経済的事情から真の職業的自由は得られていない。しかし、これがベーシックインカムを導入するようになると、経済的理由が足枷だった職業選択の自由が本当の自由になる。ベーシックインカムは生活費が保証されるので、誰でも自由に自分の仕事を選択することが出来る。もちろん医師やパイロット等の専門的な職種は制約があるが、歌手になりたいとか、クリエイターを志望するとかは個人の自由である。カネが稼げなくてもベーシックインカムで餓えることはない。

これからの時代は仕事の総量が減っていく傾向にある。仕事にはいくつかの種類に分けられて、新たな市場を開拓する仕事と、効率化により仕事を減らしていく仕事に大別出来る。研究職は新たな市場を開拓する可能性があるが、効率化が目的の仕事は様々な雇用機会を奪う。例えばプログラマの仕事はその職責において、効率化を目指すものであり、WEB決済システムを作ることはそれによって以前従来の業務で仕事を得ていた人の仕事を奪うことになる。カネは安いところへ流れ、日本人の賃金が高ければ、外国人がそれにとって代わられる。ほとんどの仕事が他者の仕事を奪う仕事であり、そうなると時代が進むほど仕事の総量は減っていく。派遣社員を増やす政策は労働力の余剰を減らすのが目的だが、基本はこれも効率化の一環なので、労働者の雇用機会を奪っていることには変わりがない。派遣労働は労働者を雇用機会から締め出す制度なので、雇用からあぶれた労働者は失業者となり国庫が負担して援助することになる。そうして職場はより労働者が少なくても機能するようなタイトな労働環境になっていく。こうして労働者は構造的に雇用から排除される。労働力を削減して利益を出す仕事は勝者総取りの理論が働き、削減した労働者の賃金が一部の労働者の賃金に還元されるが、他者の雇用機会を奪っている点でこれは自分の足を食べるタコと同じ意味である。雇用は労働者が意識して守っていかないと自分の職も喪うことに成りかねない。市場原理に任せていれば、雇用は一方的に減っていく。雇用の流動化を促進するのが派遣制度だと言われているけれど、新たな雇用を作るのは技術革新やブレイクスルーであり約束されているものでもない。ある本ではシンギュラリティの到来は近いと予言しているけれど、楽観的過ぎるような気がする。技術革新のスピードが遅れれば経済は停滞し、その代わりいかにして労働力を減らしていくのかに経済成長のエネルギーが傾注されていくように思う。ニューディール政策もそうだったが、意識して雇用は守っていかないと減っていく傾向にある。雇用を市場原理に任せる派遣制度は市場が拡大しているのが前提で成立する形態であり、この先、何番目かの産業革命が来なければ破綻する制度なのである。

戦争という祭り 2015.2.22

阿倍晋三が対テロ戦争を口実に”戦争が出来る日本”へと大きく舵を切ろうとしているが、日本人自体にも戦争に対するアレルギーが無くなりつつある。厭戦というのは左翼によるイデオロギーの押しつけであって戦争自体はそれほど忌避するべきものではない。戦争は外交手段の延長であるから自国を守るためなら他国と一戦交えてもやむなしという考え方が阿倍を筆頭に国内にも広まってきている。もう十年以上も前から仮想史実シミュレーション小説というのが一部の根強いファンを得て読まれてきているが、これは第二次大戦の”IF”を小説に落とし込んだもので、日本の敗戦を分析し次の戦争には勝てる戦略を立てる意図が含まれている。つまり日本が戦争に負けたのは方法が間違っていたという反省であり、戦争の是非については考慮しないという意味である。日本人は悪だから戦争に負けたのではない。方法が間違っていたから戦争に負けたのだ、という反省である。結局、人が人を殺すという事の重大性を真摯に受け止めていなかったということである。戦争が悪かったのではない。負けたから戦争が悪いのであるという考えが浸透してきている。だから、日本人は外国人から戦争責任について追及されると釈然としない気分にさせられる。”勝てば官軍”という言葉があるように、負けたから日本が悪い事になっているのだと日本人は考えるようになってきている。敗戦は日本の原罪となってしまっているが、日本は神の国であり祝福されているという確信と国際社会から貼られたレッテルの違いが愛国心を持つ人たちには苛立ちを感じるのだろう。日本人は祝福されているという気持ちと諸外国から貼られたレッテルの乖離に苦しむのである。最近の朝日新聞の慰安婦についての誤報は慰安婦が虚報であったという事実に日本人はそんな卑劣なことはしていない。日本人は正しいという極性を反転するような答えを求めているのだと思う。実際のところ戦争でそんな虚報の元になるような事例が一切無かったと検証するのは不可能に近く、日本人が思うような日本人のイノセントを証明することは出来ないように思う。只言えるのはこれほどまでに日本人が自分の無辜性に拘るのはそもそも日本人には原罪という考え方が歴史的に無かったからなのかも知れない。お隣の韓国では大韓民国の成り立ちに正当性を持たせるためには帝国主義日本を永遠に否定していかなければならないためいびつな歴史観が醸成されているが、日本もまた祝福された日本を取り戻すためには敗戦国日本の歴史観を清算しなければならないと少なくとも阿倍はそう信じている。日本人は戦争に対するアレルギーが薄れ、昂揚にも似た戦争への期待が高まっているのかもしれない。日本人にとって戦争とは祭りだと思う。荒っぽい祭りには死者を伴う。死への忌避観が薄まるほどに反比例する非日常への憧憬は強くなっていく。もともと日本人にとって「死」とは欧米に比べて安く見積もられているので、死への抵抗感が少ない。様々な国内での鬱憤を戦争に向けられる可能性は高い。命を掛け金にした祭りの日は案外近いのかも知れない。

教師は会社員なのか? 2014.11.10

橋下知事の意向によって公の場での君が代斉唱を学校の先生に義務づけたのは記憶に新しいが、その根拠というのが、国政の従業者である公務員は国が定めた国歌を歌うのは当然の義務であるということだ。国家が会社であるというのなら社歌である国歌を歌うのは義務なのかも知れない。会社で気に入らない社歌を歌うこと強制されて、それが嫌ならば、会社を辞めるしかない。しかし、国家が会社であるという考えには拭えない違和感がある。現代の会社は昭和の良き時代とは違い、利益を確保するのが至上の命題である。そのためには能力の低い社員は容赦なく切っていく。時には利益を上げるために倫理的な問題があっても利益を優先する場合がある。それが現在の会社の実態だが、国というものは国益に貢献しないからといって国民を追放したりはしない(厳密に言えば棄民政策はあったがそれでも国民の自由意思に任されていた)。税金(売り上げ)を納めているのが国民の条件であるならば、住民税を納めている在日外国人だって日本国民である。日本という会社の社員であるのが教師ならば教え子たちを国益の為に貢献するように教育するのだろうか?また国益に貢献しない生徒は切り捨てる?日本という会社の社員が教師ならその社員が生徒に会社の上位概念である国家について身を持って教えることが出来るだろうか?そうであれば、生徒は日本国が会社でしかないことを皮膚感覚で察知するだろう。

会社のような国は在る。戦前の日本がそのような国だった。つまり民主主義国家では無いのだ。愛国心は強制されて生まれるものでは無い。民主主義国家は会社では無い。とりわけ教師は新人社員を教育しているのでは無い。民主主義国家の成員である以上、教師が国歌を歌うか否かは本人の意志に任せるべきだ。
勝手なことを述べたが、それでもやはり教師が日本国の社員という考えには違和感がある。

いじめと嫌韓 2014.10.15

嫌韓を止めないといじめも無くならない。嫌韓の本質は韓国が反日国家であるから批判しても許されるという理由以上に、”気に入らない””自分に従わない”人間をabuseする点でいじめと変わりがない。
韓国が「反日教」という妄執に取り付かれているのなら、その洗脳を解くのを試みるのが先決である。

誰かを排除することで組織の結束力を高めるという力学も国家間でされればそれは冷戦になるし、そのミニチュアはいじめである。昭和の学生運動の最中で起きた内ゲバやオウム真理教のリンチもいわばいじめの構造と同じで、自分とは異質なもの、反するものを排除していく指向はいじめと変わりがない。一時、韓流ブームの反発からフジテレビの前で子供を連れてデモをした親子が居たが、かれらもいじめの本質が分かっていない。嫌韓流を表明することはいじめについても肯定することを同意署名しているのである。韓国もまた反日というメソッドで日本をいじめているので彼らもまた擁護は出来ないのだが、日本もまた韓国と同じレベルになって大人のいじめに喜々として参加している。週刊誌も新聞もいじめと嫌韓の同質性に気づいていないのか、いじめに大義名分を得たと思って己の鬱憤を海の向こうの人たちに思う存分ぶつけている。これだから子供の世界でいじめが無くならないのである。大人の世界自体がいじめで満ち溢れていて、またそれを肯定しているから。嫌韓の本質に大人が気が付かない限り、子供の世界からいじめが無くなる事も無い。

自分の無価値感に悩まされる不毛さ 2014.9.30

よく人は自分に価値観が見いだせないと悩む人がいるが、その悩みが僕にはちょっと解らない。価値というのは第三者が対象者やモノに対し「これは1万円の価値がある」あるいは無いとかの評価であって、ということは自分の価値というのは第三者に査定してもらうことが前提なのだろう。もしくは自分で自分の価値を決めるという行為も第三者の視点を想定して、その視線を経由して自分の価値を査定してもらうということなのだろう。しかし、どう評価してもらったにせよ、自分が想い描くような評価をしてくれるケースはまずは無く大抵は自分で納得のいかない評価ばかりだ。そもそも他人の評価が自分の存在の価値を決めるという考え方自体が不毛な考えであるように思う。親であれ友人であれ、その人に居てほしい、傍に居てほしいと思うのは当人の勝手であってそれを自分のアイデンティティの根拠にするのは一見すれば美徳のようだが、自分が居たいからそこに居るという重大な事実を隠蔽してしまっている。本当は他人の評価などに関わらず自分はこうありたいという気持ちを誤魔化しているのが、”他人に評価されることで自分の価値を見いだす”人の典型である。「会社に評価されるから自分は価値のある人間である」、「恋人に評価されるから自分に価値がある」というのは依存心の強い人が陥りやすい心理だ。共依存というものだ。依存したいから相手にも依存してもらってその負債を相殺しようと考える。自分に価値があるから他人に依存してもよいというエクスキューズである。多くの人はもっともらしい理由を付けて自分の存在を肯定しようとするけれど、実際は自分の依存心の裏返しなのだ。先ずは他人から評価されるのを期待するのは止めよう。自分は居たいからここに居るという事実に向き合おう。それには誰からの許しも必要ではない。あなたがこの世界に居ることに誰の許しも必要ではない。

親日・反日という区別の危うさ 2014.9.2

あまりこういったテーマで書き続けているとちょっと偏った人のように見られそうで敬遠したいのだが、ヤフコメやSNSで書き殴られるように書き捨てられている話題なので、つい一言二言言いたくなってしまう。
反日と親日という線引きについていつも違和感を感じてしまうのだが、その理由を書きたいと思う。
反日というのは日本の仇なす国家や人をそうレッテル貼りする訳なのだが、原則として全ての国が反日国家になる可能性が有ることを指摘しておきたい。また親日というのも日本に対して友好的であるにしても、そのようなものは単に表層的なものであるということである。
第一にどの国家・国民も自分の国・人が最重要な訳であって、それが守れないのであればいつでも反日になることを厭わない。また、よく反日・親日で区分けしたがる人は日本にとって(というより自分にとって)利用価値があるかないかで他国を評価している。例として台湾は親日国家であるとして好感を持つ人がいるが、台湾人だって自分達の存亡に関わる事態になればいつだって反日国家に変わってしまうのである。ここで言いたいのは自分にとって利用価値があるなしで他国を査定するのは危ういということである。先述したとおり日本以外すべての国が潜在的に反日国家なのである。だから反日・親日という線引きはナンセンスなのだ。自分にとって利用出来るから親密な関係が保てるという考え方も甘い。親日国家・人は日本(というよりあなた)の家来ではないのである。単にたまたま利害関係が一致しているというだけに過ぎない。反日であれ親日であれ、お互いの利益を量るようにならないと日本はまた孤立無援の状態になる可能性がある。繰り返すけど反日・親日で線引きするのは考えが浅いということだ。たまたま利害関係が一致しているだけということを噛みしめたほうが良いだろう。

終戦によせて 2014.8.22

戦争についてよく描けているのは「はだしのゲン」だと思う。戦争とは実は外形的なものではなく、最初に起こるのが人の心の中から始まることを赤裸々に描写しているところがこのマンガは正直で真摯に描いた作品であると思った。巷では「はだしのゲン」は反日マンガという烙印を押されて図書館から排斥されようとしていたのだが、このマンガが敵視していたのはアメリカや軍部だけでなく日本人の心にもあったのが愛国者を自称する人から反感を買ったようである。ほんとうの愛国者とは利己心と愛国心を混同することはないのだが、偽物の愛国者は歴史的文脈から見ても自分がイノセントな存在であるという誘惑に勝てず、「はだしのゲン」のような日本人批判をするマンガが許せないのである。人間は完全なイノセントな存在には成れないもので、それを押し通したいという人は単にその人の幼児性そのものが原因に他なら無い。罪悪感を引きずって生きるのは辛い。敗戦国日本という歴史的文脈の中で日本人を名乗ることは、戦争に荷担した事実と向き合わなければならず正直しんどい。ましてジャパン アズ No1とまで言われ繁栄した日本で育った若い世代にはこういった日本の”原罪”を疎ましく思うに違いない。従来の日本の戦争犯罪についての見解を信じることは自虐史観と呼ばれているが、近年になって湧き上がる日本の過去を正当化する風潮は自慰史観といえるだろう。どちらを選ぶのかは個人の自由だが、人間は罪を冒す生き物であることを前もって了解している人と、まったくのイノセントに拘る人とではどちらが大人なのかは明解であるように思う。結局のところ近年の日本の右傾化は幼児化であると言い切ることができそうだ。人間は間違う生き物であることを念頭において常に軌道修正していく人は強い。そして成長に終わりがない。だが、自分の正当性に拘るばかりで現状を肯定するだけなら成長は止まるしその先もない。今ある自分を肯定するのは楽な道だが、そろそろそのぬるま湯から出る時期に来てるんじゃないの?とは思う。
誰しも我が身が可愛いのはそうなのだが、そういう自分を臆面もなく主張しても恥ずかしくない社会になってきたのにも問題がある。結局誰もが他人のことを考える余裕が無くなってきた社会が悪いのだろうか。

原爆投下によせて 2014.8.9

広島に原爆が投下されて一昨日で69年目を迎えたが、8月6日は晴れの特異日なのか、今日も東京は滲みるような蒼い空が早朝から広がっていた。原爆を落とされて広島の街が壊塵に帰しても次の長崎に落とされるまで降伏を先延ばしにした当時の日本軍部の硬直した指揮系統に驚くが、当時の価値観では国民の生命が国体というあいまいなものと価値が逆転していたために多くの人命が犠牲になっていた。もはや国民の利害から離れて国の面子が優先された日本では人命の価値が片道の燃料代よりも安かったのである。日本の戦争犯罪についてはいろんな立場の人からの主張があるのだが、当時、アメリカにコテンパンに負けた日本は世界で生き残っていく処世術を身に付けるためにGHQから押しつけられた日本国憲法を日本の行動規範として採用したのではあるが、時が下るにつれてこれを押しつけたアメリカの事情の変化もあり憲法改正の話が湧いてきたのである。しかし改憲派の主張ではアメリカに押しつけられた憲法を改正して日本国民が自主的に憲法を定めようとするものだったのが、今度はそのアメリカに促されての改憲とは矛盾しているようだが、そのあたりの整合性を改憲派はどう考えているのか気になるところではある。戦争を”外交”の一環であるとうそぶいたクラウゼヴィッツは、当時の戦争は局所的であったのが、現代では世界を巻き込むカタストロフィに突き進む危険性を常にはらんでいる。現代はクラウゼヴィッツの時代とは状況が違うのである。ロマンティシズムを僅かに残していたヨーロッパの戦争は過去のものとなり第一次大戦以降は民間を巻き込む総力戦となり酸鼻を極める悲惨なものとなった。実際の戦場を見たことは無いのだが、リアルな戦争の描写としてスピルバーグ監督の「プライベート・ライアン」の冒頭のノルマンディ上陸作戦のシーンが真実に近いように思う。毎年毎年、夏が来るたびに戦争の悲惨さ残虐性を訴える報道が続くのだが、それが69回も続けば最早念仏のようになってきて、戦争を知らない世代にはそのメッセージが正確に伝わっていないような気がしてならない。昨今の主に若い世代による戦争を軽視する言動は、それを伝える側の怠慢とも言える。いつの時代もそうだが、老人は悔やみ、若者はそれを侮る。日本の近況もそういった大きな時の流れの志向の揺り戻しが来ているように思う。但しこの次に日本が世界的戦争に巻き込まれれば生き残れない可能性は高い。そのリスクの計算を見誤った時、日本は滅びるのだろう。主戦派の人たちは念仏のように繰り返す平和の唱道を胡散臭く思っているのだろうが、そういった軽挙妄動をどう諫めていくのか。結局、他人の痛みを想像できない人が増えているなか、戦争の非道性を訴えてもそういう人たちの心には届かないかもしれない。日本の反戦報道も日本人が一方的な被害者になる描写が多く一方でアジアでは日本の残虐性をことさら大きく報道している。その差が日本の若い世代を苛立たせ不満を中国や韓国に向けるのだろう。日本の反戦教育にも問題があった。軍部を一方的にスケープゴートにして戦争の主体を曖昧にしてきたのが原因だ。結局そこを誤魔化し続けたツケが日本の右傾化と言えるのかも知れない。戦争に正義も悪も無い。それを二元論化し、アメリカを、軍部を悪に仕立てあげた日本のマスコミの苦しい事情が察せられるが、アジア諸国はその二元化が容易だったのに対し、日本も同じフレームで戦争を振り返ったのがそもそもの間違いなのである。戦争の本質を描ききれなかった日本の文化人にその責は有る。

未成熟な市民社会 2014.8.6

公共の場で赤ん坊が泣いていたらそれを迷惑がる大人が居る。公共の場だから静かにしろと言いたいのだろうけれど、厳密に言うと単に自分がうるさがっているだけである。よく周囲の人が迷惑しているから止めろと言う人が居るが反論の矛先をその他大勢の人に向けて自分への批判をかわそうというのが狙いである場合が多い。もちろん公共の場であれば、自分の快を抑えて周囲の人の快適さを尊重しあうのが大人の作法である。そういう場で静寂をかき乱す存在があれば快く思わないのも当然だろう。
しかしながら静寂という自分の快を優先したいがあまりそれを他人に強要することは、これもまた大人の作法とは言えない。若くても分別のある年齢の子供にマナーを守らせるのは良いのだが、分別の分からない赤ん坊にそれを強要するのは分別のある大人のすることではない。つまりは分別のある大人の振りをした無分別なのである。最近はこういったケースが多い。飛行機の中で子供がむずがるのを睡眠薬を飲ませて静かにさせようと言う言論人がいれば、客室乗務員にクレームを言う芸能人も居る。
いずれにしてもこれらの人達は公共の場は静かに運用されるべきという金科玉条を盾にとって自分の快を優先させているに過ぎない。
成熟した市民社会とは不愉快な他人の存在を認めることが第一の成立条件である。
あなたの存在が私には不快である。でもあなたもまた私の存在が不快なのは解っている。
だから不快であってもお互いの存在を認め合おうではないか。それが民主主義の神髄なのである。最近のきな臭い極東事情はそんな基本的な考えを忘れ、ひたすら自分の快だけを優先した結果こうなった。

ノブレス・オブリージュという言葉が浸透しない限り、自分の快だけを主張する人は無くならないだろうと思う今日この頃。

憎しみの本棚 2014.7.28

卑近なことで恐縮なのだが、たまに行く近所の本屋でTOEICの本を買い求めたのだが、目的の本はいつもある棚にはなく、代わりに置いてあったのは嫌韓・嫌中を主張する類の本ばかりが陳列されていた。本屋も売れるのならどんな本でも店頭に並べるのが商売なのだから本屋を責める訳にはいかないのだけれど、こんなヘイトスピーチに準ずる本が書店の一画で堂々と陳列される日本はずいぶん変わってきたように思う。「仲良く韓国と中国が崩壊する」とか「呆韓論」とか読んだことはないのだが、ほとんど作者の願望が先にあって書かれた本じゃないのかと思うような本ばかりである。もちろんその作者には批判には尤もな論拠に基づいて批判を展開しているのだろうけれど、韓国・中国が好きなんだけれど合理的に考えると限界があるよね、という冷静な分析がある著書は少ない。先ずあるのは特亜に対する偏見や蔑視である。一方で逆に日本が蔑視されているという著書も存在する。どれが真実なのかは分からないが、いずれにしてもそういった国単位で国民の感情を一つの統一された意思のように分析するのは危険のように思う。第一、たいがいの日本人は華僑や在日朝鮮人を別にしてネイティブの特亜の国民と接触する機会はほとんどないのである。大抵は他人のフィルターを通して中国・韓国観が醸成されていく。実害を被った訳でもないのに実体験から生まれないで作られた価値観を普通は”偏見”という。飛躍しているように見えるが、日本で起こった無差別殺傷事件の犯人は、普通に暮らしている人の日常を想像出来ず自分の幸せを彼らが奪っていったと妄想し憎しみを募らせていった。この殺人犯の心裡と差別主義者の心裡はよく似ている。どちらも想像力の欠如であり、普通に暮らす人に対して異常な妄想力を昂進させている点で双子の兄弟と言える。マスコミは猟奇的殺人犯を糾弾しながらその予備軍をアジテートしている。マスコミがマッチポンプと言われる由縁はそこにある。
人は複雑なものを単純化して理解する誘惑に抗えない。その過程で生み出されるのが偏見であり、差別なのである。世界は自分が想像するよりずっと複雑だ。複雑なものを複雑なものとして受け入れる勇気と覚悟を持つべきではないのだろうか。
ちなみにTOEICの参考書は別の書架に移動されていた。

クーベルタン男爵の誤算 2014.7.20

近代オリンピックは民族の祭典と言われていた時期もあるが、実際問題として国威発揚の側面があったことは否定のしようがない。身体能力を駆使し優劣を競いあうことで、競技者の序列を決める、すなわち国家間の力関係を決める場でもあったのである。一方、古代オリンピックは祭りであり神を讃える神事でありえた。そこでは選手は競技に参加することで民と神をつなぐダイモニオンになりえた。選手は神聖視され、たとえそれが敵であっても市民からはリスペクトされていた。それが古代オリンピックの実態である。その神事が廃れて久しかったものを復活させたのが近代オリンピックの父クーベルタン男爵である。クーベルタンは戦争で疲弊した国々をスポーツによって親交を深めようとしたが、これも代理戦争の一つのバリエーションであることは否めなかった。信仰心を抜いたオリンピックは国家の面子を誇示するもう一つの戦場にすぎなかったのである。人々もそれは皮膚感覚で理解しており、自国の選手を応援するだけでなく、時には他国の選手にブーイングを浴びせかける。そこにはもう古代オリンピックにあるような神聖なる儀式の要素は無かった。この神聖化されるはずだった要素に代わるのがスポーツマンシップなのだが、選手にはあっても高いところから只見物するだけの観客にはなかなか理解されない。スポーツマンシップとは自分と互角に渡り合う敵を共感を以て認め合う精神をいうのだが、先述した通り只テレビで観ているだけの観客にはその崇高さが分からないのである。これは当時テレビの無かった時代にいたクーベルタンには誤算だったといえるだろう。選手との一体感を欠き安全なところから観戦する民衆は現代に甦る血に飢えたローマ市民と言えるのかもしれない。

スポーツが互いを認め合う崇高な場である一方、憎しみをぶつける負の側面も持つ。正義が悪であり、恐怖政治を秩序と呼び、自由という無秩序。常に世界ではひとつの言葉に相反するニュアンスをまとってその意味の取り合いをしている。我々はその意味の中間に立たされ引き裂かれている。

無駄な努力は本当に不要なのか 2014.5.30

巷では結果の伴わない努力は意味が無いと云う。20年くらい前に欧米の成果主義を日本に導入し始めてから無駄な努力は悪いことになってしまった。たしかに企業目線で言えば結果こそが利益を生むことであり利益の伴わない仕事はその従業員の給料を賄えないため無駄と言い切る事も理解出来る。だが、人類の栄えある歴史は無駄な努力を重ねながらその中のごく一部が実を結んだものである。つまり無駄な努力がなければ有益な結果も生まれてこない。努力とは投資であって、損をする場合もある。それを承知の上で努力を積み上げるのである。だから努力したものが即結果に結びつくというのは少々虫の良い話しなのである。投資とは損をするリスクを引き受ける、それが本当の投資ではないのか。100円投資したらそれが即120円になって還ってくる訳ではない。巷に溢れる”無駄な努力不要論”というのは、経営者が労をせず利益を得たいと願う願望から生まれたものなのだ。人間は生きていること自体が既に事業でありギャンブルでありえる。ビジネスはギャンブル性を最小化したギャンブルであり、ギャンブルは進んで分の悪い確率で臨むビジネスである。”努力”とは賭場で積み上げるチップのことであり、賭け金に見合う報酬を約束するものではない。その損を引き受けて努力というチップを積み上げる人間こそが本当のギャンブラーであり勝者なのである。
“企業”は英語でEnterpriseと云う。この単語は会社の意味だけでなく“冒険”という意味もある。会社を経営することはリスクを伴うものということを言い表しているのである。昨今の政府が志向する残業代ゼロ案は企業にリスクと取らせない方針であり、Enterpriseの思想から反した政策であると思う。
だが、これからは政府のプッシュにより“無駄な努力不要論”は推進力を得てもっと世間に認知されていくように思う。只、前述した通り費用対効果を性急に求める社会はブレイクスルーも起きないと思う。寛容性の無い社会は息苦しい。

愛国心について 2014.1.6

愛国心は右翼の人・保守派の人のみが保つ感情かと思われるのだがそうでもないように思う。左翼の人は国を嫌っているわけでもない。“体制”というものを嫌っているのであって日本そのものを嫌っているわけではない。全てを嫌うのはニヒリストくらいなものだろう。たぶんアナーキストにも愛国者は居る。それだけ愛国心とは人の心に深く根ざす感情だからである。 愛国心とは父母を思慕するような心をいうのだと思う。それは何かしらの利益をこうむるから生まれる感情ではなく、唯、それが存在するだけで生まれる親愛の情に等しい。そういった感情を祖国に対して持つのが愛国心だと思う。 一方で他国を批判し、評価を下げることで祖国の評価を相対的に浮上させる愛国心というものがある。経済力の向上や軍事力の増強によって国が力を得て諸外国からリスペクトされることを期待するのも愛国心というらしい。しかし私にはそれが本当の愛国心には思えない。夕方、豆腐を売歩くチャルメラの音を聞きながら、犬の散歩の途中に公園のベンチに腰を下ろし夕陽を見ながら「日本っていいなー」と思えるのか、思えないのか。私の思う愛国心とはこういうものを思うのだけれど、もう一方の愛国心とはどういったものなのか。たとえ話をしてみよう。自分の子供を名門大学に入学させるために子供に過度に勉強を強いる親が居たとする。これは子供を愛しているのか、それとも親の虚栄心なのか。なにが愛国心なのかは自明のように思う。 原発問題を挙げれば、祖国を愛しているのならば基本的に原発はNOのはずである。国力や経済がなんであろうとも、日本が回復不可能にまで汚染されるリスクを取れないのが本当の愛国者なのだから。虚栄心と愛国心を混同しているのが一部の愛国者だと思う。いやたぶんそれは愛国者ではない。鏡に向かって愛国と叫んでいる自分にうっとりとしているナルシストのことだろう。 富国のために愛国心と結びつけるような愚は冒してはほしくない。 富国と愛国心は別のレイヤーで語られるべき事柄だからだ。

これからの仕事観 2014.1.3

現在の日本社会では派遣労働者が実に全体の4割近くを占めるという。
安倍政権では雇用の流動化を図るため派遣労働者の比率を増やしていくのだそうである。その意向のせいか人材派遣会社が続々と起業されているらしい。
なぜこうも多く人材派遣会社が生まれているのかというと、初期コストが極めて低いことが考えられる。そして運営するに営業力は要るが技術は要らない。必要なのは長期的に利益をもたらしてくれる技術力のある技術者の確保だけである。一方で日本社会の観点から云うと人材斡旋業者は国力の増進には寄与していない。”生産しない”、”アウトプットがない”という点で国の経済発展には貢献しないのが人材派遣会社の実態である。もちろん、雇用の流動化の促進や、仕事のマッチングの手助けをすることにより全体では社会に貢献していると言えばそうなのだろうけれど、そういうこと言い出すと「公営ギャンブルで消費したカネは社会に還元するからギャンブルは肯定されるべき」という”免罪符を買う”ようなゆるい道徳観になっていくのでここでは厳粛に却下する。
現状ではそういった労働者と雇用主の間の調整役として人材斡旋業者が入っているのだが、いずれはこのような労働形態は無くなっていくと思う。というより無くしていかないと効率の良い社会経済は実現しない。今はその過渡期なのではないのかなと思う。
元請け会社に労働者が派遣されて仕事をし、派遣元から給料を貰う業務形態は元請けが労働者の管理就業の責任を放棄する一方で派遣会社は只労働者を派遣することに執心しマージンを賃金から差っ引く労働形態は不健全であるとすら云えよう。
大手派遣会社のマージンを知れば驚くかもしれないが、派遣労働者が元請けに派遣される時の契約金額の数割は派遣会社のポケットに落ちていく。
これからの労働観は安定した雇用が享受出来ない代わりにフリーランスとして生きて行くのが良いように思う。中間会社のマージンを出来るだけカットして1案件ごとの仕事で高い報酬を得る。
これからは雇用主間とで取り交わされている契約金が明示されていない派遣会社は避けて契約金を開示してくれる派遣会社で登録するのが次善の策のように思う。
契約金の額を知らないと雇用している会社が自分に幾ら払って仕事をさせているのか分からないと顧客のコスト意識が当人に実感出来ないという意識の乖離が生じてしまう。本人は40万円の仕事を引き受けているつもりが雇用主側では70万円の費用対効果を求めている意識の差が生じるのである。
結局のところ、収入をUPするには中間搾取をどれだけ減らすかに掛かっている。


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